古希(こき。原文の表記は古稀。「稀」は常用漢字にはないので現在では古「希」と書くことが多い)とは、70歳のこと。
唐の詩人杜甫の詩・曲江(きょっこう)「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。(しかし)人生七十年生きる人は古くから稀である)に由来する。
※Wikipediaから引用
古希お祝いの歴史
長寿社会となった今、70歳といってもそれほど長生きとは感じない方が多いのではないでしょうか。
しかし、昔は70歳おろか「還暦」の60歳すらもそうとうな長生き。そのため、古代中国では40歳から10年ごとに長寿を祝っていた時代もあったようです。
その習慣が日本にも伝わり、次第に寿命が延びていった後も、還暦後10年目の70歳を祝う習慣は残りました。但し、実際に「70歳=古希お祝い」とされたのは、室町時代の頃ではないかとされています。●「三十にして立」てば「七十にして」…
「三十にして立つ。四十にして惑わず…」という言葉を聞いたことのある方は多いでしょう。また、故事古語などに関心のある方なら、古代中国の学者・孔子の言葉であり、「論語」の中に記された一節であることも充分承知されるでしょう。
では、なぜその言葉が「古希祝い」に関係しているのでしょうか。実は、この一節の締めの言葉は、「七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」。つまり70歳、古希の年齢まで述べて一つの言葉となっているのですね。その意味はというと、「70歳になった今では、たとえ自分の気持ちのままに行動しても礼儀や規則を外れることがなくなった」といったところ。つまり、自然体のままで礼儀や規則にかなう生き方ができるようになったと孔子は述べているのです。もちろんこれは、単に年をとったからではなく修行の積み重ねであるというのがそのいわんとするところ。現に、「三十にして…」から「七十にして…」の間には、「もう10年、もう10年と修行を積んできたので…」といった意味合いの言葉が記されています。
●古稀にして生涯一度の海外旅行――志賀直哉
文学好きの方でなくても、その名前を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。私小説の神様とも呼ばれる文豪・志賀直哉。実は、彼の初めての外国旅行体験は古稀を祝う記念旅行でした。この時、ある新聞社が旅費の提供を申し出たのを断わり、あまつさえ餞別までも断わったというのは、頑固で清廉な明治人気質の志賀直哉らしいエピソードです。
その上、当の新聞社が紙上に連載した、記者による道中記の内容が“面白くするためのでっち上げ”だったことにも怒り心頭。旅を終えての帰国後、疲労と称してそのまま自宅にこもり、件の新聞社の人間とは会おうともしなかったとか。その清々しいまでの頑固さはさすがといえます。
しかし、その一方で、当初は半年以上をかけて欧州各地を周る予定だった旅行を半分ほどの3ケ月で切り上げて(それでも、忙しい現代社会から見れば充分に長期旅行ですが…)帰国した理由は、実はホームシックになってしまったからだとか。生涯に最初で最後の海外旅行は、世界が認める文豪といえども、なかなか刺激的な経験だったようです。
●呼び方よもやま
「古稀」か「古希」か?
「こき」と調べれば「古稀祝い」とあったり「古希祝い」とあったり。いったいどちらが正しいの?と疑問を持たれたことはありませんか。正解から言えば、「現代社会においてはどちらも正しい」。本来、古希は中国の故事「人生七十古来稀也」からきているため、「稀」の字が正しかったのですが、「稀」が常用漢字ではなかったため、1946年の当用漢字制定の際に「稀」の代用として同じような意味を持つ「希」の字が使われるようになりました。なお余談ですが、この2つの漢字、形がよく似ているため、「稀」が「希」の旧字だと勘違いされることもありますが、それは間違い。「稀」のほうは「のぎへん」が表す通り穀物の状態を指す言葉で、「希」は反物の状態を差す言葉。つまりその関係は新旧ではなく兄弟か親戚関係といったところです。
「アラ古稀」って…
「アラサー」と言えば30歳前後、「アラフォー」といえば40歳前後、そして「アラ還」といえば60歳前後。このノリで登場したのが「アラ古稀」という言葉。言わずとしれた古稀の周辺、つまり70歳前後を表す言葉です。還暦でさえ長寿であった頃ならば古希は大長寿。「アラ古稀」などと軽いイメージの言葉では表しにくいところですが、平均寿命が80歳を超える今、古稀は“人生まだまだ、これから!”の年。むしろ「高齢の自覚」がようやく芽生える年齢と言えるでしょう。それだけに、「アラ古稀」の言葉のイメージもなかなか軽やか。また、「古稀」の場合はそれ自体が文字も発音も2文字のため、逆に一番わかりやすい表現になっているというのも面白い結果ですね。
●古希の記念旅行へ、こんなスポット。
歌人・吉井勇を偲んで京の町
京都市東山区の白川沿いに古稀に関係した歌碑があるのをご存じですか。刻まれているのは「かにかくに 祗園はこひし寝るときも 枕のしたを水のながるる」という歌。作者は京都の文化、そして何より祇園をこよなく愛した歌人・吉井勇(1886~1960年)。彼は宮中歌会の選者をしたこともある一流の歌人であり、東京生まれながら人生の半分を京都で過ごした人です。この歌碑はそんな吉井勇が京都住まいの中で古稀を迎えた昭和30年、友人の谷崎潤一郎らが発起人となって建立したもの。以来、川沿いに佇み、歴史が薫る古の都・京都の風景の一つとなっています。
文化遺産の宝庫であるというより、町自体がそのまま文化遺産のような京都。旅行にいっても周りたいところ、見たい名所はいっぱいかもしれませんが、この歌碑のある風景もまた、京都ならでは。たとえば古稀祝いにこの歴史ゆかしい街を訪ね、ちょっと歌人気分で歌碑に対面、その後川沿いをぶらぶら歩きするのもオツかもしれませんね。
高村光太郎の情熱に逢う十和田湖畔
十和田湖の畔、休屋の御前ヶ浜に佇む二人の乙女の像は、明治~昭和を代表する芸術家・高村光太郎(1983~1956年)の70歳、つまり古稀祝いの年の作品。この像の魅力は、どこから見ても、像を眺めている人自身が像から見つめられているように感じること。これは、眼が空洞に彫られているためなのですが、同時に、そうしたことまで考え尽くした高村光太郎の彫刻家としての洞察力や手腕も感じさせる手法です。
なお、この像のモデルは、光太郎がその命亡き後までも愛し続けた妻・智恵子だと言われています。そのためかどうか、光太郎は完成した像に対し「地上に割れてくづれるまで この原始林の圧力に耐へて 立つなら幾千年でも黙つて立つてろ」と呼びかけたとか。そんな光太郎の炎のような情熱と十和田湖の静かな風景のコントラストを楽しむのも、旅の醍醐味といえそうです。